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菅野漬物食品の歴史
菅野漬物食品の歴史

菅野漬物食品の歴史
History

屋号 玉子屋の由来 菅野沖治

私の四代前、福島県伊達出身の菅野沖治は明治十年(1877年)生まれ、姉キナと一緒に1880年後半、伊達を出て相馬郡鹿島の横手に住み込みで働くようになりました。しばらくして沖治は現在の会社の土地を手にし、魚屋を始め、乾物と生卵売りも始めました。菅野キナは東京田無の村田家にお嫁に行き、娘キミが生まれました。しかし、大正12年の関東大震災で被災し、その影響で二人とも亡くなりました。沖治はトメという人と結婚しましたがトメが病気で直ぐに亡くなり、その後、ハツという女性と結婚しました。沖治は子供に恵まれず、宮城県白石の一条家から幼いハナを養女として迎えました。生卵を地元鹿島から仕入れ、白石の鎌先温泉や、福島県飯坂温泉などに卸をしていて、ハナの実家一条家にはいつも出入りしていました。菅野家に養女に来たハナは、幼いころより一生懸命家の手伝いをしていました。魚屋、乾物、卵などを扱うお店だったため、地元からは「玉子屋さん」と呼ばれていました。昭和十五年、菅野沖治が亡くなり、菅野菊雄が漬物業を始めた時に地元から「玉子屋」と呼ばれていたもので登録商標を取りました。

漬物業創業 創業者 菅野菊雄

私の三代前の菅野菊雄は明治四十一年(1908年)生まれ、福島県安達郡新殿村杉沢出身、尋常小学校では悪戯(いたずら)が大好きで、大人もびっくりするような悪戯をしていたそうです。新殿村の山の上の一軒家に住んでおり、水もなく山の下まで水を汲み天秤棒を担いで何度も往復して生活をしていました。尋常小学校卒業後、大正九年(1920年)三春字七久保中町の小川魚問屋に小僧として働きに出ました。三年後の大正十二年(1923年)東京に行こうと決意し、魚屋で働いていた小僧二人で、汽車に乗り、東京を目指しましたが、いわきで駅を降り、歩いて着いた所は相馬郡原町でした。原町駅の駅舎で原町の食料品店を営んでいた中本さんのご主人に声を掛けられ、二人は原町で別々に働くことになりました。菊雄は声をかけられた中本食料品店さんに拾われ番頭となり、一緒に来た小僧も違うお店で競争して働いたそうです。お店では地元の良いものを遠い所に売りに行き、遠い所の良いものを仕入れ地元で販売をし、皆から喜ばれたようです。菊雄は地元の人でない分、一生懸命働いたそうです。昭和三年から昭和四年の一年間、武蔵屋というところに一か月十六円で下宿をし、昭和四年(1929年)十一月七日鹿島の魚屋の「はな」と結婚し、婿入りという形になりました。丸に田のマークで沖治とは独立した魚屋を始め、昭和八年から仙台より魚を仕入れ原町の旅館に販売を始めました。電話機を入れ【電話番号42番(始終荷有り)】の番号を農協から買い、商売をしていました。子供は3人の娘に恵まれる。昭和十三年には沖治が脳卒中で病に倒れ、寝たきりになりました。日中戦争に入っており、菊雄は昭和十四年六月、三尺桶十本と四斗樽五十本を仕入れ、梅を漬け始めたそうです。昭和十五年(1940年)、塩の配給を受けるのに、県庁の検査員お二人と消費組合の須賀川青果問屋の人が検査に来ました。検査の結果として塩取りを県から指定されました。理由は当社だけが本当の数量のことを報告し、「正直者」の結果であった。飯坂に呼ばれ、六尺のコンクリートタンク六本作るように言われ本格的に漬物業もできるようになりました。鹿島の八澤に八澤製塩場を作り、電気釜で海水を煮込み、製塩していました。その年沖治が亡くなり、店の裏側(現事務所の下の工場)に菊雄と妻の「はな」が一緒に土を掘り一本65円でタンクを作り、四間×九間三十六坪の初めての工場を作り、漬物製造業が始まりました。大船渡の海軍場に梅干しを納め、いわき(昔は平)の常磐炭鉱駐屯部隊にたくあんを納め始めました。昭和十六年太平洋戦争が始まり、昭和十七年頃には社員数が20名ほどになり、しそ巻き大根などを作り販売していた。鹿島の海の北海老という地区の西畑キオさんの家にもタンクを作っていただき、地元でキュウリや大根の漬け込みに協力していただいた。近くの西畑常蔵さんにもお世話になったそうです。下漬け原料も作り、昭和二十一年からは群馬の新進食糧さん、仙台の針生商店さん、平の茗荷屋さん、ハセベ商店さんなどに原料大根を納め始めました。昭和二十二年より昭和四十年までしそ巻きを販売。現在の相馬きゅうり漬の原型となった「一丁漬」というきゅうり漬も販売し始めた。昭和二十年十月二十日戦後まもなく、イナゴの佃煮を作っており、イナゴの乾燥をしていた室「むろ」から出火し、工場全体が火事の為消失してしまいました。昭和二十三年有限会社相馬農産加工場と法人化、資本金は19万円でした。そのころ社員数は30名に達していました。

高度成長 二代目 菅野俊夫

昭和二十七年長女の光子が同じ相馬郡の小高にある豆腐屋(信夫豆腐店)の三男、阿部俊夫が菅野家の婿に入いりました。これが私の父菅野俊夫です。俊夫は秋田鉱専「秋田大学の前身」に入学し、戦時中は学徒動員で日立の工場で働き、ゼロ戦の発動機「エンジン」プラグを作っておりました。昭和三十一年からみ漬を新発売。今までにない漬物ということで評判になり大ヒット、秋田の伊藤商店さん、相沢商店さん(あいたこさん)、大舘の八代商店さん、横手の石井商店さん、青森の奥村商店さん、丸金さん、八戸の中田商店さん、気仙沼の神辺商店さん、宮城県小牛田の瀬川本店さん、東京の鷹田屋さん、北海道の越後屋さんなどと取引をさせていただくようになりました。木箱に入れた漬物は鉄道運送で丸通を利用しておりました。皆、得意先は商品が来るのが待ち遠しく、駅まで商品が来るのを迎えに行っていたそうです。昭和三十三年には福神漬・ナス朝鮮漬が発売、昭和三十九年には真柄鉄工場のタテヨコの機械(福神漬を切る機械)を導入、福神漬の量産を始める。昭和四十一年、福神漬で鈴木善幸厚生労働大臣賞を受賞し祝賀会も行った。福神漬を品評会に出すため、祖父が手切りで福神漬を作っていたのを思い出されます。漬物も刃物が大事、きれいに切った商品はつやと照りが出る。又、日持ちも違うし、食べた時の触感がまるで違う。というのをいつも言っておりました。だから刃物は常に研ぐように教わりました。又、キュウリは乳酸発酵にこだわり、乳酸発酵させないと「胡瓜の青臭み」の嫌(いや)みが消えないと言って、常にぎりぎりまで乳酸発酵漬け込みを行ってまいりました。そして、薄味でも嫌味が出ない「相馬きゅうり漬」が当社の看板商品になったわけです。山海漬なども始めていました。昭和四十年度の売上は9156万円、資本金は67万円で株式会社菅野漬物食品を設立し、資本は130万円に増資しました。昭和四十年仙台市長町に菅野菊雄と「はな」が二人で住みながら営業所を作りました。昭和四十一年仙台の卸町に仙台営業所を開設。昭和四十七年社員数は87名売上も4億3000万円になり、資本金を300万円に増資しました。昭和五十一年には社員数93名、売り上げ9億2000万円になり、寺内に原料工場を作り並びに浄化槽を建設しました。

変革 三代目 菅野行雄

昭和五十四年現社長の菅野行雄が入社、資本金を1200万円に増資、菅野俊夫が社長に就任しました。全ての商品をサッカリンから全糖に切り替えました。昭和五十六年相馬きゅうりを発売、腐敗を防ぐため、南側に大型冷蔵庫を設置しました。又、それまで漬物の処方は「何石と何斗」という単位から、「キロとリッター」に単位を変更しました。漬物会社の工場長をなさっていた方に来ていただき、当社の基本的な処方の書き方を一週間泊まり込みで教えていただき、当社の近代的な処方が出来上がりました。しかし、カップ類が売り上げのメインであったが、サッカリンから全糖に切り替えたため、栄養がありすぎ、菌の繁殖が早く、膨張による返品が相次いだ。これを最終的に解決するのに3年近くの日数がかかりました。昭和五十八年西町工場完成、研究室と商品開発室を設置し、ライン上にも一品一品品質保証をするための検査をするようにした。これにより、返品、クレームがだいぶ少なくなる。昭和61年一夜漬けを始める。平成三年新工場と事務所を建設、浄化槽の増設を行った。平成五年九月よりがんこ茄子を発売、中国に茄子原料を購入に行き、中国出張先から売れ行きがどんどん良いという返事をいただき、原料の買い増しをしました。相当な大ヒットだった。私が鹿島に戻ったその年、創業者の菊雄は70歳、父が社長になり、祖父はその年仕事を止めました。甲冑づくりが趣味になり、朝から晩まで甲冑づくり励むようになりました。地元では相馬野馬追というお祭りがあり、甲冑類の収集もしていました。祖父が甲冑を皆に見ていただきたいということと、地域の憩いの場を作りたいということもあり、平成六年、甲冑館を併設した「つけもの処香の蔵」という小売店舗を開設しました。福島県佐藤栄佐久知事はじめ、国会議員、県会議員さんにも来賓として来ていただきました。平成七年資本金2400万円に増資、平成十年に菅野行雄が社長に就任。この年、キムチ専門店、相馬一口きゅうり漬などが新発売され、大ヒットとなった。

東日本大震災から現在

平成二十三年三月十一日東日本大震災が発生、地元にある火力発電所が火事になり、ものすごい黒煙が上がり、三月十四日には第一原発から自衛隊員、警察関係者が一斉に逃げ出し、このままでは社員全員が被ばくの恐れがあると感じ、避難命令を出しました。食品の製造は放射能で汚染され、「この地ではやっていけないか」と一瞬会社運営を諦めようとしましたが、よくよく調べた結果、放射能もさほどではなく、丁度32キロ地点の為、避難地域から2キロ離れていたので、これは大丈夫、まだやっていけると決意し、三月二十四日に幹部を集め、四月四日より事業を再開しました。仕入れの支払いは全部支払い、全従業員を解雇せずに始めることができました。しかし、スーパー様・コンビニ様向けの商品類は放射能が心配だということでまるで売れなくなりました。事務所にも毎日電話がかかってきて、「なんで南相馬で漬物を作っているんだ」「買って裏表示を見たら放射能のところで作っているじゃないか」など、当社の事務の方々は、毎日、お客様に罵声を浴びせられながら「放射能検査をして安全ですから」という説明をしながら涙ながらに対応をしていたのが思い出されます。全国のコンビニエンスに入っていた小茄子、全国で売れていたキムチなどは特に一気に市場から消え去りました。その頃、まあまあの売れ行きを見せていたのが、香の蔵の小売業でした。その年、路線を変えBtoBからBtoCへお客様に直接販売し、感動されるものを開発しようと決意し、その年の12月「蔵醍醐 クリームチーズのみそ漬」が誕生しました。2014年クリームチーズのみそ漬が食品産業センター会長賞(正田修会長「美智子上皇后の弟君」)をセンター会長から直接受賞、2015年、豆腐のみそ漬を日本商工会議所会頭より表彰、2015年あん肝のみそ漬が農林水産省食料産業局長賞を桜庭会長より直接受賞、2016年クリームチーズのみそ漬がOMOTENASHIセレクション受賞、2017年3月18日王様のブランチでクリームチーズのみそ漬が全国お取り寄せランキングで2位、2018年東日本お土産グランプリ特別賞受賞(東北で唯一当社だけ)、船井総研食品ビジネスアワード2018でヒット商品賞受賞、その他、テレビ雑誌で多数ご紹介いただきました。震災の次の年の平成二十四年六月には福島エスパル店オープン、平成二十七年にはセデッテかしまオープン、平成二十八年二月仙台エスパル店がオープンいたしました。このようにして、BtoCの商品を増やしてきました。

今年は新型コロナウイルスにより、せっかく売り上げを伸ばしてきた香の蔵商品が緊急事態宣言になり、人の移動がなく、今まで積み上げてきた、BtoCのお土産製品の動きがぴたりと止まってしまいました。しかし、今度はスーパー様向けの商品群の売り上げが伸びてきております。 ともかくも時代はどんどん変化してきます。いつ何が起きるかわかりません。お陰様で当社では、スーパー様向けの商品売上も多いため、この困難を、社員一丸となり乗り切ってまいる所存です。このコロナウイルスがどうなるかわかりませんが、どのようなことがあってもゆるぎない経営をしなさいという、モラロジーの教えを忠実に守り、創業者菅野菊雄の商売の在り方、二代目菅野俊夫の会社の利益と存続の在り方等を忘れることなく、仕入れ先様、お客様、社員を守り、三方良しの精神で今後も社会のお役に立てる企業づくりを目指していきたいと思っております。

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