相馬中村藩は、江戸時代の日本で、旧陸奥の国の標葉群から宇多郡まで(現在の福島県浜通り北部)を治めた藩です。藩主の姓から相馬藩(そうまはん)本拠地名から中村藩(なかむらはん)と呼ばれ相馬中村藩ともいわれます。
相馬氏は平将門を起源とし、平氏一門の名家であり、鎌倉時代初期の平泉遠征(1189年)後に陸奥の国行方郡に移住して、7世紀前半の浮田国造領(陸奥の国の宇多郡と行方郡)を支配下に収めて以来、1492年の標葉郡の領土編入を経て、戊辰戦争終結(1868年)までの約740年間に亘ってこの地を統治しました。このような長期間の統治を行った領主は、島津氏(鹿児島県)、相良氏(熊本県)、南部氏(青森県)など少数で、世界史上に比しても有数に長い統治期間と言えます。
19代相馬忠胤(第3代藩主)は、徳川譜代の土屋氏からの養子であり、720年もの伝統を持つ「相馬野馬追」に講武的色彩を加え、現在まで続く形式を確立しました。又、鎌倉時代からのつながりで藩士の多くは藩内各地に知行地を与えられました。天明年間に発生した天明の大飢饉では大打撃を受け、領民の多くが餓死し、逃散しました。これに危機感を抱いた藩の上層部は、秘かに真宗教団(浄土真宗)と接触し、禁制であった移民を越中国(現在の富山県)などから受け入れ、藩の立て直しを図りました。又、二ノ宮尊徳の良い噂を聞いて藩主は富田高慶を派遣し、報徳仕法の実践を行い、藩の立て直しを行いました。富田高慶は尊徳の娘を嫁にもらい、現在でも南相馬原町区に二人のお墓があります。
この様な歴史の中、平清盛から始まった野馬追のお祭りは一千有余年という歴史を持ち、現在まで伝えられています。
相馬野馬追は騎馬武者が馬に乗り、お行列、神旗争奪戦、甲冑競馬をし、最後は野馬を捕まえるお祭りです。野馬を敵と想定し捕まえるというのが本来の主旨です。 野馬追の為に馬を飼っている人も多く、お祭り近くになるとその馬に乗り乗馬の稽古が始まります。お祭りでは騎馬武者は本当の武士さながらで、お行列の前を横切ったり、上(二階)から見下ろすことも許されません。騎馬武者だけでも五百騎近くが参加する大変勇壮で世界に類のない素晴らしいお祭りです。
この様な環境の中で当社の初代菅野菊雄は野馬追関係の繋がりも多く、甲冑作りと収集が趣味となりました。若いころから禁酒会に入りお酒は飲まず、その代わり徹底的に凝り性で趣味も徹底しておりました。最初は盆栽と石、仕事を辞めた七十歳頃より、甲冑を毎日朝から晩まで作り、甲冑一両を作れるようになりました。
自分の作った甲冑や収集したものを皆に見せたいと願っており、地元の安らぎの場として甲冑館『菊翁(きくおう)』を併設した「おつけもの」の直売所『みそ漬処 香の蔵』を二代目菅野俊夫が設立いたしました。
相双地区には昔から神社仏閣も多く、歴史と自然にも恵まれた環境の中、当社は地域社会のお世話になりながら生かされてまいりました。